長州藩の命により江戸へ遊学した高杉晋作が、現地で好んで食べたのが鮪(まぐろ)のヅケだった。冷蔵や輸送技術が発達していなかったこの時代は、鮪を生で食べる習慣がなかったが、晋作は長州藩に戻ってからも「鮪がおいしかった」と話していたと伝えられている。
そして、21世紀の現在、山口県周南市では、東京の銘店で江戸前鮨の修行を積んだ職人が本格的な漬けマグロを提供している。店を切り盛りするのは、鮨 金星(きんせい)3代目の冨田洋司さん。その生き様はまさに現代の高杉晋作だ。
鮨 金星は、大正時代末期に創業。地元で有名な割烹料理屋で料理長をしていた初代が独立して開いた鮨屋だ。
店の3代目として生まれた冨田さんは「将来店を継ぐのが当たり前」という環境で育った。
長州藩の萩で武家の長男として生まれた高杉晋作が、「武士になるのが当たり前」と剣術や勉学に勤しんだ姿と重なる。
高杉晋作は、地元の明倫館や松下村塾で勉学に励んだが、さらに見聞を広めるため江戸へ遊学。
当時の最高学府である昌平坂学問所や大橋訥庵塾で学ぶ間を縫って、江戸小伝馬町の牢に投獄されている吉田松陰から教えを受けた。
文武両道の晋作は、勉学の合間を縫って剣術の稽古を重ね、江戸遊学から戻った後に柳生新影流剣術免許皆伝を授かった。その後、全国各地を遊学するときは地元の道場を巡り、腕を磨いたと伝えている。
一方、冨田さんは東京・八重洲の有名店「おけい寿司」で修行を重ねた後、地元周南市に戻り鮨 金星の3代目となる。
そして、鮨 金星で提供される「漬けマグロ」は、東京の銘店と比較しても遜色ない丁寧な江戸前の仕事が施された逸品だ。
冨田さんの鮨を握る動作の一つひとつがが華麗で美しい。
右手でシャリを取った瞬間、左手にある鮨種に右手の人差し指でサッと山葵をつける。江戸前鮨の伝統的な握り方である「本手返し」だ。現在、本格的な江戸前の鮨屋でも本手返しができる鮨職人はごくわずかである。
しかも冨田さんが鮨に触れるのはわずか二手。
「何回も触れると体温で鮨の温度が上がるから」と冨田さんは控えめに語るが、無駄のない動きですばやく握る姿は、まさに名人芸の一言に尽きる。
鮨 金星はおまかせコースが基本だが、いきなり店自慢の漬けマグロが登場する。「鮨はあっさりしたモノから出すのが一般的だが、うちではあえてお勧めのネタから出しています」と冨田さん。
おまかせでいきなり鮪から攻める型破りさだが、2週間寝かせた漬けマグロを頬張った瞬間に、冨田さんの心遣いが伝わってくる。
高杉晋作は、幕末時代、講和会議の席で突然古事記を唱えたり、英国公使館焼き討ちを起こすなど、希代の志士として知られていた。後に同士であった伊藤博文が「誰もが驚く型破りの行動」と評したほどだ。
型破りな行動というのは、自分の技や信念に自信があって、はじめて実行することが可能となる。
冨田さんが「他店の約3倍の時間を掛けて仕込む」というネタは水分が程良く抜けて熟成が進み、まったくクセも魚臭さもなく、シャリとのバランスも絶妙だ。
鮨 金星で提供するネタの種類や産地は季節によって変わるが、山口県で養殖が盛んな車海老の握りは必ず注文したい一品である。塩ゆでと甘酢ヅケの2種類の仕事があり、それぞれ異なるおいしさを体験できる。
また、握り鮨だけでなく、コースの合間に出てくる椀物の味もあなどれない。
型破りで大胆なメニューに繊細な仕事を施す。山口県周南市で、本格的な江戸前鮨を握る冨田さんは、幕末の志士であった高杉晋作の魂を受け継いでいるようだ。
しかし冨田さんは「江戸時代、鮨は屋台で気軽に食べるものだったから」と語り、けっして気取ることがない。
周南市は、明治時代に旧海軍の石炭燃料基地が設立したのを機に、続々と工場が建てられ、現在も「周南コンビナート」と呼ばれる工業地帯が周南市の沿岸にある。
昼は無機質な建物が立ち並んでいるが、夜になるとその姿が一転。煌々とした人工光がコンビナートや建物を照らす。近未来的かつ幻想的な雰囲気な「工場夜景」は人気も高く、中国地方初の工場夜景クルージングも実施されている。