山口県萩市は、2015年、松下村塾をはじめ萩城下町や萩反射炉などが世界遺産として登録され、注目を浴びている。
萩は、幕末から明治時代にかけて活躍する政財界人を輩出したことでも有名だ。その歴史を紐解くと、志士たちの先見の明に驚くとともに、数え切れないほど大きな功績に敬意を抱くことだろう。
初代総理大臣 伊藤博文(いとう ひろふみ)は、大日本帝国憲法制定、内閣制度の創設など、当時の諸外国に負けないような近代国家の実現に尽力した。
これらの制度を築くときに手本の1つとしたのが、4人の同志と共にかつて留学していたイギリスだ。
1863年、長州藩は幕府の掟を破り、伊藤博文ら5人の若き藩士をイギリスに派遣した。
長州ファイブのメンバーは、伊藤博文、初代外務大臣を務めた井上馨(いのうえ かおる)、工部大学校(現在の東京大学工学部)を設立し、盲聾教育を提唱した山尾庸三(やまお ようぞう)、日本初の鉄道開設に尽力し鉄道庁長官に就任した井上勝(いのうえ まさる)、大阪造幣局長を務め「桜の通り抜け」を考案した遠藤謹助(えんどう きんすけ)の5人。誰もが知る功績を残した偉人ばかりだ。
1864年下関戦争を知った伊藤博文は井上馨と共に長州藩に戻り、英、仏、米、蘭の4カ国と長州藩の講和会議に同席し通訳を務める。
そのとき、長州藩代表として出席したのが、伊藤博文が尊敬してやまない”幕末の風雲児”こと高杉晋作であった。
木造萱葺き平屋建ての建物が伊藤博文旧宅。旧宅の隣に立つ別邸は、1907年博文が東京の大井町に建てられた住まいを移築したもの。(写真は別宅)
世界遺産「松下村塾」から歩いて約5分のところにあるのが伊藤博文旧宅と別邸だ。旧宅は、14歳のときに移り住み、1868年28歳で新政府に出仕するまでここを生活の拠点とした。
旧宅の隣に立つ別邸は、1907年博文が東京の大井町に建てた広大な別邸の一部を移築したもの。青年期を過ごした旧宅と内閣総理大臣就任後に建てた別邸は、伊藤博文の出世の様子を語っているようだ。
萩の上級武士の長男として生まれた高杉晋作は、藩校である明倫館に入学したが、授業に不満を抱いていた。
19歳のとき、晋作は幼なじみである久坂玄瑞(くさか げんずい)の紹介で松下村塾に入門すると、生涯師と仰ぐ男性と運命の出会いをする。
松下村塾で勉学に勤しみ、師の教えを忠実に受け継いだ晋作は、さらに見聞を広めようと江戸へ遊学した。
そして1862年、藩命により上海を視察したとき、イギリスの植民地となった清の状況を見て「外国に負けない日本を作るには倒幕が必要」と考えるようになる。
日本に戻ると、晋作は伊藤博文や井上馨などを率いて英国公使館焼き討ち事件を起こす。その後、藩の命で隠遁生活をしていた。
だが1863年、長州藩はアメリカやフランスの艦隊から攻撃を受け惨敗。晋作に助けを求め、晋作は4カ国との講和会議に出席、長州藩代表として大きく貢献した。
萩博物館の目玉は、高杉晋作資料室。高杉晋作愛用の甲冑や直筆の書など、晋作ゆかりの品も多数展示されている。高杉晋作の生涯をまとめた年表なども展示されている。
この後、長州藩は幕府寄りの保守派(俗論派)が要職につくと、倒幕派(正義派)である晋作の仲間たちは次々に命を落とした。
俗論派となった長州藩政を倒そうと決心をした晋作は、伊藤博文の力士隊をはじめ約80名の有志とともに長府の功山寺に集結した。これが有名な「功山寺挙兵」である。
萩城下町の中心にあるのが高杉晋作誕生地。邸宅内には晋作が産湯に使われたとされる井戸や晋作の句が刻まれた石碑が残されている。
菊屋横町にある高杉晋作誕生地にある建物は、晋作が生まれ育った家を改築したもので、晋作の写真や直筆の書などを展示している。庭先に立つと、剣術に励む晋作の姿が今にも思い浮かぶ場所だ。
奇兵隊を中心とした晋作軍の人数は、俗論派と比べて圧倒的に少数だったが、戦いを重ねるうちに井上馨などの仲間や近くの農民が続々と参加し次第に勢力を拡大。そして、軽装の洋式軍服・最新式のミニエー銃と小太刀を持つ晋作軍は、重い鎧兜と旧式の銃を装備した長州藩正規軍に勝利した。この戦いは、歴史上例のないクーデーターの成功と言われている。