本州の最西端に位置し、関門海峡を望む下関市は、古くから日本の歴史が激変するきっかけとなった場である。平安時代末期の「壇ノ浦の合戦」をはじめ、幕末維新の時代には、尊皇攘夷を巡る戦いなどが繰り広げられた。
海に面した下関は、手付かずの自然が残っている。歴史の痕跡と自然が調和した街は、季節を問わず見どころが満載だ。
本州と北長門海岸国定公園に浮かぶ角島をむすぶのが角島大橋(つのしまおおはし)だ。
1,780mと通行無料の橋としては日本屈指の長さを誇り、コバルトブルーの海に真っ直ぐ伸びた橋は、美しいのひとことに尽きる。その絶景は映画やCMにも登場し、全国でも有名なスポットである。
本州と日本海に浮かぶ離島、角島にかかる全長1780mの橋。鮮やかな青緑色をした日本海を見渡せる市内有数の人気スポットだ。橋の途中にある小島、鳩島で足を止め360度広がる絶景を楽しむのもお勧め。
かつて角島は知る人ぞ知る景勝地だったが、2000年に角島大橋が完成し、離島の角島は本州と容易に往来ができるようになると様子は一転。知名度も人気も全国区となった。その勢いは、開国直後の日本が急速に発展した当時を思わせる。
角島には、日本海の澄んだ海に角島灯台公園や灯台記念館など見どころも多い。地元の人々にも人気の高い角島は、実際に足を運ぶ価値がある観光地だ。
下関は、高杉晋作ゆかりの地としても有名である。1864年12月、幕府に恭順する藩の方針を転換させるため、晋作は伊藤博文らとともに功山寺で決起した。こののち長州藩は、幕府が攻めてきた際には決死で防戦するという方針を固めることとなる。
その後、晋作は、下関で27年の生涯を閉じた。晋作終焉の地には記念碑が建ち、全国から訪れるファンが後を絶たない。
他にも、下関には、晋作らによって発議された櫻山招魂場(現在の櫻山神社)や、晋作の墓がある東行庵など、晋作と縁の深い名所や史跡が多数残っている。
晋作が愛した下関の街で幕末維新の面影を巡れば、ファンならずとも気持ちが高揚するだろう。
鎌倉時代に創建した功山寺は、禅宗様建築の仏殿が国宝に指定されている禅寺。境内には功山寺挙兵の功績を讃えるように高杉晋作像が建っている。また、桜や紅葉の名所としても有名な名刹である。
1864年下関戦争の休戦交渉に、長州藩代表として臨んだ高杉晋作。このとき、通訳として晋作のそばにいた伊藤博文は、「彦島が租借地にならなかったのは晋作のおかげ」と思ったようだ。
後に伊藤博文は、船で彦島の前を通過したときに「あのとき晋作が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。
租借地となった香港や九龍半島は長年イギリスに支配された。これに対し晋作は、彦島を他国に明け渡さずに日本の領土として守り抜いた、と彼の功績を讃えている。
晋作の功績は、その後も語り継がれ、一説によると「晋作は、交渉の席で相手国側から彦島の租借を求められたとき、即座に古事記を唱えて相手国側を混乱させ、彦島の租借を諦めさせた」とも伝えられている。
ただこの話は、歴史上の事実かどうかは不明だ。当時の交渉国の議事録には、彦島の件は何も記されていない。幕末の風雲児として数々の逸話を持つ高杉晋作らしいファンタジーである。
下関市の西の端にある関門海峡は、交通の要所としても有名な土地。日本と海外との取引が制限されていた江戸時代においても、国内交通・流通の要衝であったことから異文化や海外情報に接する機会に恵まれていた。
江戸時代に全国的な交通・流通網が整備されると、下関は北国、瀬戸内、九州などからの船を迎え入れる拠点港として機能することとなる。
各地の豊富な物資や情報が集散することとなった下関は、西日本屈指の海港都市に発展した。
下関市は、海水浴場の数がなんと10以上もある。瀬戸内海から日本海まで、景観も波の様子も全く異なる海で泳ぐことができるのは、日本中探してもわずかだ。
自分好みの海水浴場を探してみるのも楽しい。角島大浜キャンプ場、島戸海水浴場、土井ヶ浜海水浴場など、バーベキューやキャンプなどを楽しむことができるので、家族旅行にもぴったりだ。